青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバル

By Yuki Keiser November 2007 & August 2008


青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバル

1. SFの映画館でハーヴェイ・ミルクを知って

Profile: 成田容子 (Yoko Narita)
青森市生まれ。慶応義塾大学文学部卒業。東京で就職後、サンフランシスコ州立大学に留学。その後、サンフランシスコにある日本語テレビ放送会社に入社。88年に帰国し、国際交流プログラムを企画運営する財団法人に13年間勤務。2001年、青森に戻り、翌年、NPO法人スタッフとなる。2006年、第1回青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバルを開催。
●映画祭HP http://aomori-lgbtff.org/

成田容子


2006年より毎年7月末に開催されている青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバルは、今年の7月27日(日)3回目の上映会を無事に終えた。

東京や大阪と比較し、青森ではLGBT層がまだ見えにくい中、地方で映画祭を開催するのは勇気ある行動と感じる人が少なくないだろう。そんな映画祭のパワフルな創始者&実行委員長、成田容子氏にロングインタビューを行った。彼女のアメリカでの経験や、80年代のサンフランシスコのゲイ事情、ハーヴェイ・ミルクに触発されたエピソード、セクシュアリティ、映画祭の今後の目標など、たっぷり語っていただいた。


青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバル

――成田さんは、青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバルの創始者ですが、そもそも映画祭を始めた理由や経緯について教えていただけますか? 

話はさかのぼって長くなりますが、まずは私の経歴について少しお話をさせてください。親戚がアメリカのサンフランシスコなど西海岸に多く住んでいまして、子どもの頃から家にはアメリカのチョコレートが送られてきたり、アメリカに親近感を感じ、ずっと興味を抱いていました。それでアメリカに旅行に行きましたら、とても気に入りましたので、80年代初頭にサンフランシスコ州立大学に留学しました。ちょうど、ゲイの方たちの間で病気が流行っているという噂が浮上していた頃です。「体力がなくなり、どんどん痩せて死んでしまうような病気で、それがうつるらしい」といわれている時代でした。いま思うと、アメリカでエイズが最初に発症したときでした。当時は、「サンフランシスコのゲイの通り」といわれているカストロ通りのゲイの方たちは、レザーやぴったりとしたTシャツに細身のジーンズを履いている、というのが典型的な印象でした。

――以前アメリカのレズビアンの方にインタビューを行ったときに、70~80年代のゲイの方に対してまだ差別が多く、イメージが良くなかったと聞きましたが、成田さんもそういったことを感じられましたか?

当時、ゲイやレズビアンをオープンにしている友達はまったくいませんでしたが、そういった実感はとくになかったです。ただ、留学後、1984年から会社員として引き続きサンフランシスコで生活したのですが、新聞やテレビ、雑誌などで「エイズ」という言葉を見ない日は無かったという時代でした。そういった意味では暗い時代でした。

それで、84年から88年の間に、私にとってとても印象に残る経験が数々ありまして、その中のひとつがカストロにある映画館、カストロシアターで『The Times of Harvey Milk(邦題:ハーヴェイ・ミルク)』を観たことです。当時、ハーヴェイ・ミルクという人がどんな人かは全然知らなかったのですが、私は高校のときから熱狂的な映画ファンで、そのドキュメンタリー映画の大変高い評価を聞いていました。それで観に行きました。その映画館で初めてハーヴェイ・ミルクを知り、衝撃を受けました。「こういう人と知り合えたら良かった」という強い思いと、観客の中にゲイのカップルが多かったのですが、彼らが号泣していて、その様子が私にとってまた衝撃でした。

今年の映画祭でこのドキュメンタリー映画を上映したのですが、そういった個人的に大きな意味も含まれていました。ですから、映画が終わって会場から拍手が起こったときは20年前のことを思い出し胸が熱くなりました。

今年の2月にサンフランシスコに行く機会がありました。この秋アメリカで公開になるハーヴェイ・ミルクの人生を描いた映画『Milk』(ショーン・ペン主演)の撮影現場も見てきました。彼が経営していたカメラショップが復元されていて、カストロ通りも70年代の雰囲気になっていて感動しました。ハーヴェイ・ミルクは、私にとってとても重要な人で、この映画祭のきっかけのひとつとも言える人物であると思っています。

HarveyMilk.gif
※ロバート・エプスタイン監督のドキュメンタリー映画『ハーヴェイ・ミルク』。©Telling Pictures


――私もこのハーヴェイ・ミルクのドキュメンタリーを拝見して大変感動させられたんですが、実際にカストロの映画館で観られるのはさらに臨場感あって貴重な経験ですよね。

本当にそうですね。もうひとつの同時期の体験は、1986年にアムネスティ・インターナショナル設立25周年記念のロック・コンサートに行ったことです。サンフランシスコで催されていて、私は大のロックファンでもあるので(笑)、U2 などを見たさにライブに足を運びました。そこで初めて「アムネスティ」という言葉を知りました。それまではその意味すらあまり知らなかったのですが、そのライブでその組織の存在や意味、また日本に支部があるということも知り、それから色んなことを自分自身で調べるようになったんです。ですから、2006年に国際交流基金のフェローとしてアムネスティ・インターナショナルUSAのニューヨーク本部にあるOUTfront ProgramというLGBTセクションで研修ができたことはまさに夢がかなったようなものでした。

――なるほど。エイズの話に戻りたいのですが、当時はいまから想像しにくいほど暗い雰囲気だったと聞いています。実際はどんな感じだったんですか?

街を歩いていても、おそらくエイズ末期の方だと思うのですが、顔に肉腫が出た人が車椅子に乗っていたり、若いボランティアかパートナーの方かわかりませんが、そういう人が介助しているような場面に出くわしたりもしていました。また、とても印象的なエピソードがあったのですが、あるデパートのエレベーターに乗っていたとき、やせて、おそらくエイズを発症していると思われる方が介助されながら車椅子で乗って来たんです。その方は見るからに本当に弱っていて、顔にも肉腫が出ていたので大変だなと思いました。でも他の階でまた違う人が乗ってきたときに、その方と普通に会話を交わすんです。お天気のことなどたわいない話をして降りていきました。それを見たときにアメリカの人というのは、一見、子どもが見たら怖くなるような症状の人に対しても、自然に話しかけたりするのが、すごくいいなぁと思ったんです。余談ですが、そういう良い経験もありました。

――サンフランシスコで就職されたとおっしゃいましたが、当時はどういったお仕事をなされていたんですか?

日本のフジテレビとは違うのですが、フジテレビという会社でした。紅白歌合戦やNHKの連続テレビ小説などに英語の字幕をつけてベイエリアで放送する会社です。いま思うと、その時期サンフランシスコにいて仕事をしたことが、現在の活動に繋がっているのではないでしょうか。

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