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6. セクシュアリティより関係性中心主義で
――Tokyo Wrestling の記事は日本語と英語、一部、フランス語で掲載しているので、海外の読者も多いんですが、『ナチュラル・ウーマン』の捉えられ方が国によってどう違ったかご存じですか?
全く情報が入ってこないので、わかりません。フランスの場合は、フランス人が取材に来てくださったり、97年、パリで開かれたブックフェアに行った時に、少し感想が聞けました。フランスでも「非常に文学性が高くて好きだ」と言ってくださる方もいれば、「自分の体験を書いただけじゃないの?」って勝手に決めつける方もいました。
――ブックフェアのことは『アニース』(1997年夏号)のインタビューにもありましたが、ホモフォビックな雰囲気を感じられたそうですね。
何人かのフランスの女性作家と同じ壇上で話をするという企画があったんですが、誰も訊きはしないし、私も何も言っていないのに、1人が「私は松浦さんと違って男性が好きだから」って言い出したんですよ。そしたら間髪入れずに他の女性作家も「私もです!」と。そのとき、この人たちは同性愛だと思われるのは真っ平だ、自分たちとははっきりと別のものだ、と思ってるんだな、と察せられて、ああ、ヨーロッパもダメだな、と感じました。フランスにはジャン・ジュネという偉大なホモセクシュアルの作家がいるのに。
――今でこそパリはすごくゲイフレンドリーなんですが、当時、私(カイザー)はスイスに住んでいて、フランスのテレビ番組を見ていたんですが、レズビアンに関してはすごくネガティヴな捉え方でしたね。男にもてない女、みたいな。宗教な背景ももちろんあると思うんですが、特に、女性が批判されていたような気がします。男性から独立するわけなので、それは許されない。女性差別的なものを感じました。
そうそう、男性はミソジニスト(女嫌い)でさえも、女性が自分たちに興味を持たないとすごく憎むんですよね。ミソジニストには日本で馴れていたんですが、おそらく欧米にはそれに加えて、レズビアンにフレンドリーではない女性が存在する。日本にもレズビアンと聞くと反射的に後ずさる女性はいますけれど、ヘテロセクシャルの経験しかなくても女性との恋愛にも憧れる女性もわりあいにいますから、欧米より楽な部分があると思います。
――どうして日本の女性は比較的レズビアンにフレンドリーなのだと思われますか?
宗教的なタブーがなかったり、欧米ほど自分をきっちりとセクシュアライズしなくてもよくて、曖昧なセクシュアリティのまま生きて行ける、とういう事情の他に『源氏物語』の時代から男性に抑圧されない女性主体の文化がある、ということが大きいのではないでしょうか。ことに少女マンガは1960年代からレズビアンものがあって、レズビアンをせつなくロマンティックに描いて来ましたからね。ただ、今の若い人たちはだいぶんアメリカナイズされているというか、「彼がいるのはあたりまえ、いないのは不幸」というセクシュアライズされた感覚が強いかもしれません。そういうふうに、セックスを強く意識するようになったからこそ、同性愛に自覚的になる人も増えたと思いますが。
――松浦さんがインタビューで「欧米では同性愛を描いた作品は即、自伝だと捉えられてしまう」とおっしゃっていたのを読んで、まさにそうだなと思ったんです。それまで気づかなかったんですが、漫画家のやまじえびねさんも海外のメディアではレズビアンとしてカミングアウトした作家として扱われているんですよ。松浦さんは、やまじさんほどではありませんが、「レズビアン作家」として紹介されていた記事を見たことがあります。
欧米ではカミングアウトが常識だからなのか、それとも、一般的にヘテロセクシュアルの作家は同性愛を真正面から取り扱わないものだからなんでしょうか。私はレズビアンであるとも、レズビアンでないとも、一回も言ったことはないんですけどね。
――カミングアウトに対するお考えは、『アニース』(2001年夏号)でも伺ったことがありますね。
はい。繰り返すと長くなるので簡単に言うと、カミングアウトがすべての面において有効・有益とは思っていないんです。「レズビアンではない」と発言することにも反動的な側面があると思いますから、私が「レズビアンではない」と言うことは決してありませんが。『カラーパープル』の作者、アリス・ウォーカーは「すべての女性が『私たちはみんなレズビアンである』と言えばいい」と、とても面白いパフォーマンスを提案しています。それならば、同性婚など、同性愛者の権利獲得の要求をするにしても、マイノリティが払う個人的な犠牲が少なくてすみますし。ただ、ヘテロセクシュアルの女性に「レズビアンだと言ってください」と頼むのも、頼む側、頼まれる側、双方気が重いかと思います。私は「すべての人間がセクシュアル・マイノリティである」という共通認識を持つ社会であればいいと考えています。そういう社会であれば、人々は自分のセクシュアリティを今よりずっと、気軽に開放的に話せるでしょうから。
――カミングアウトといえば、ジョディ・フォスターも、「レズビアンです」と宣言したわけではないんですが、日本の雑誌の記事ではもう有名なレズビアンのリストに入っていますね。
人は他人のことを、セクシュアリティであろうがパーソナリティであろうが、見たいように見る、考えたいように考えるものですからね。「自分は同性愛ではない」と公言しても、全然信じてもらえない場合だってあるわけですよ(笑)。そこからしても、本人による公的なセクシュアリティ表明に絶対的な意味があるとは考えにくい。
――実際のところは、たとえ同性と長い間一緒に暮らしている人がいても、レズビアンとは限りませんよね。私(萩原)とパートナーの関係も、レズビアンカップルに見えるでしょうし、それはそれでかまいませんが、私のアイデンティティはバイセクシュアルだし、また、あくまでも仮定の話ですが、私のパートナーがトランスセクシュアルだという可能性だってあるかもしれません。
そうですね。2 人のパートナーシップがどういうものかなんて、本人たち以外にはわからない。性の関係があったかどうかはもちろん、愛情だって、恋愛感情だったのか、姉妹や親友のようなものだったのか。また、性の関係がなかったとして、性以外の何らかの官能的なものがあったのか、あったとしたらどんなものだったのか。他人には知りようがない。当人たちですら明確にはわかっていないかもしれません。そういうふうに、人の関係性って一言では言えないものですし、関係性の中心がセクシュアリティと決まったものではない。セクシュアリティ中心主義ではなくて、関係性中心主義とでも言えばいいんでしょうか。関係性から考えないと、人は幸せになれない気がします。レズビアンだと自覚していても、女性のいい伴侶とめぐり会えるとは限らない。それなら、人は必ずしも伴侶を性で結ばれた人間に限定する必要はない、と発想を転換してもいいと思うんです。気の合う友達とか、それこそギャグ・パートナーと人生をともにしてもいいでしょう。お互い人間的に好意を持ち合え、性関係を持たないことの合意が得られる相手であれば、男性が伴侶になる可能性だってあると思います。日本ではヘテロセクシュアルのカップルでもセックスレスは珍しくないですしね。ただ、いうまでもなくこれは、男性の経済力に依存したり、社会的な利益を享受しながら、女性を性的に利用することの勧めではありません。また、性によって結ばれることの幸福を否定するものでもありません。
――松浦さんの作品は一貫して、関係性がテーマですよね。
ええ、これからはセクシュアリティ中心主義ではなく、関係性中心主義へ……と、キャッチコピーを作っちゃいましたけど (笑)、この頃改めてそう自己認識しているところです。

※『ポケット・フェティッシュ』白水社(白水U ブックス)、¥ 767。1994年刊行。絵画や写真、T シャツ、アート作品など、作者が愛し、時には嫌悪するものへの思いを綴ったエッセイ集。
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